神童アーカイブス

神童幼稚園創立60周年を迎えて

神童アーカイブス|写真01 平成14年(2002年)2月24日。神童幼稚園は、創立60年を迎えました。これはひとえに本園の教育保育を見守り、支えて頂いた保護者、教職員、地域の皆様のおかげと心から感謝申し上げます。
さて、多くのお支えで今日まで歩んできた神童幼稚園ですが、その創立者の歩みを少し振り返ってみようと思います。
教員の父をもつ創立者北川定雄は、池田師範学校(後の大阪教育大学)を卒業後、大正9年から大阪市難波第四尋常小学校(後の難波元町小学校)訓導(教諭)として教鞭をとっていましたが、校長職で終わることなく、一生教職に奉げようと決意し全財産を投じて「豊中神童幼稚園」を現在地に設立、昭和17年(1942年)2月24日に大阪府から正式認可を頂戴しました。
右下の写真は、空襲の後に泥の中から出てきた設立認可書。左下は設立間もない頃の園舎を東側市道から撮影したものです。 園舎の赤い屋根には風見鶏が乗っていました。教職員は園長含めて4名、園児は19名でスタートしました。(当時の定員は2学級で80名でした)

 いよいよ動き始めた夢の幼稚園でしたが、敗戦色の濃くなった昭和20年(1945年)6月7日、B29からの1トン爆弾の直撃を受け園舎は無残な姿に変り、後には直径10mもの大穴が不気味に口をあけていました。
遠くからは母を呼ぶ子どもの声が聞こえて、夕方には細雨の中、蛍が二つ、三つと人魂の如く流れて見えたそうです。
神童アーカイブス|写真02左写真は爆弾池。東側市道から撮影された写真です。左の建物は半分以上吹き飛んだ園舎です。
今も手許にこの空襲の「証」の1トン爆弾の鉄片(保育室のピアノの音響版に突きささっていました)と焼夷弾の破片が保管してあります。
この穴は、長い時間をかけて、ほとんど北川定雄一人で埋め戻されました。

 廃材の寄せ集めでトタン葺でしたが園舎も復興し、再開園できたのは昭和24年(1949年)4月2日でした。園児30人での再スタートでした。
昭和27年(1952年)には手づくりの総タイル貼の8mプールが完成。その後園児が増え続け、昭和36~38年(1961~1963年)と木造園舎の増築も続きました。
この間に給食調理室も完成。東京オリンピックの翌年、昭和40年(1965年)に園児数は279名に及びました。(この頃豊中市は人口30万人でした。)
神童アーカイブス|写真03

 園児数の増加、教育機関としての社会的責務の増大、もはや個人経営では進まなくなると判断し、昭和40年(1965年)10月19日に法人化し学校法人神童学園に運営を移しました。併せて昭和41年(1966年)12月に8保育室の鉄筋二階建て園舎を完成させ、昭和48年(1973年)9月に更に職員室、遊戯室、給食調理室の入った鉄筋二階建ての管理棟も完成することができました。
神童アーカイブス|写真04 昭和53年度(1978年度)に園児数は370名に達しました。当時は戦後のベビーブームと高度成長でどの幼稚園も満杯、そんな一時期でした。昭和54年(1979年)8月には3年保育用にと新館も完成しました。
しかし各地で増加する幼児の受け皿作りが進み、私立幼稚園数も増え、昭和43年からの公立幼稚園設置や通園バス導入園の増加などが原因となって、徒歩通園を堅持していた本園の園児は減少し始めました。平成2年(1990年)は学校法人化後最低の164名となってしまいました。低迷の中で迎えることになった創立50年の平成4年(1992年)2月。その式典を待たずに創立者北川定雄は椅子にもたれて園庭の園児の歓声を聞きながら永い眠りにつきました。

神童アーカイブス|写真05 初代にお疲れ様でしたと労いの言葉をかけ、それからが私の仕事の始まりでした。ベースは父の残した建物(借金コンクリートでしたが)、それに進取の精神とマドリングスルー(泥の中を這いずり回る)の魂でした。
新しい知能開発教材、通園マイクロバス、預かり保育、スキー冒険旅行、温水プール遊び、課外バス、泥んこプール、栄養士管理の給食、園庭開放(キスプログラム)、震災復旧、コーナー保育からのびのび充実保育へ、クライミングウォール設置、スポチャン、キス親子クラブ、ハロールーム設置、預かり保育の充実、言語や絵画研修体制の強化・・・ソフト面も含めてあれこれ取り組みながら今日まで参りました。

 昨年、空襲時の父の年齢を私も迎えました。父が爆弾池を埋めていた時友人から「人はどん底まで落ちたら落ち着く。あとは上るだけ。」と言われたそうです。今もその言葉を噛み締めながら、未来がどんな時代社会であっても「幼児」と「子育て文化」のために「神童」は力の限り行動して参りますのでこれからもご支援のほどよろしくお願い申し上げます。

平成14年(2002年)2月20日 園長 北川定行